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作曲家一覧

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鄧雨賢

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1906年7月21日 - 1944年6月11日

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台湾

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鄧 雨賢(とう うけん、Teng Yu-hsien、1906年7月21日 - 1944年6月11日)は、日本統治時代の台湾の作曲家。唐崎夜雨のペンネームでも活動し、後に東田暁雨という日本名に改名した。 桃園県龍潭郷出身。広東省嘉応州鎮平県(現在の梅州市蕉嶺県)から移住した客家人の子孫。父の鄧盛猶が台湾総督府から台北師範学校(現在の国立台北教育大学)の漢文教師に招かれたため、3歳で父に従って台北に移住。1914年、艋舺公学校に入学した。1921年、15歳の時に台北師範学校に入学し、オルガンやマンドリンなどの西洋楽器に接した。1925年に卒業後に、大稲埕の日新公学校に勤務するが、24歳の時に日本に渡って作曲を学んだ。 作品のうち、『雨夜花』『望春風』『月夜愁』『四季紅』の4作品が特に有名で、4曲合わせて「四月望雨」と呼ばれる。

パーシー・フレッチャー

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1879年12月12日 - 1932年9月10日

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イギリス

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パーシー・イーストマン・フレッチャー(Percy Eastman Fletcher, 1879年12月12日 - 1932年9月10日)はイギリスのクラシック音楽の作曲家で、今日では吹奏楽や軍楽の音楽でよく知られている。また、ロンドンの劇場で音楽監督としても大成功を収めた。 フレッチャーが吹奏楽コンクールのために委嘱した作品には、1913年の全米選手権でアーウェル・スプリングス・バンドが優勝した際に使用したトーンポエム「労働と愛」などがある。この曲はしばしば、近代吹奏楽の運動とレパートリーの発展における重要な瞬間とみなされている。 フィリップ・スコウクロフトはこの作品を「あらゆる媒体における最も本格的な作品」と評価している。

ジャイルズ・ファーナビー

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イングランド

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16世紀末から17世紀前半に活動したイングランドの作曲家。 ヴァージナル職人だった従兄弟ニコラスの手引きで音楽に開眼する。1592年にオックスフォード大学で音楽学士号を取得。 ファーナビーの作品はヴァージナルのためのものが有名であり、とりわけ曲集《フィッツウィリアム・ヴァージナル・ブック》に収録された52の小品が名高い。ヴァージナル曲以外では、マドリガルやカンツォネッタ、詩篇がある。

村川千秋

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1933年1月1日

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日本

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山形県立山形南高等学校、東京芸術大学音楽学部器楽科を卒業後、同大学音楽学部作曲科に入学、作曲を池内友次郎に師事、同大学作曲科卒業。1963年渡米、インディアナ大学大学院で理論科助手として勤める。かたわら指揮を専攻。マスター・オブ・ミュージックを授けられる。さらにニューヨークにてレオポルド・ストコフスキーのもとで研鑽を積む。1966年帰国。東京交響楽団の客員指揮者としてデビュー。以後同楽団・札幌交響楽団・日本フィルハーモニー交響楽団・京都市交響楽団などを指揮する。 1968年、山形県初の本格的オーケストラ指揮者として山形新聞社の山新3P賞「進歩賞」を受賞。1972年、東北初のプロオーケストラ、山形交響楽団を設立。正指揮者に就任(のちに常任指揮者に)。1992年、山形県教育功労者表彰。1994年、渡邉曉雄音楽基金特別賞受賞。1995年、齋藤茂吉文化賞受賞。2001年、山形交響楽団創立名誉指揮者に就任。2004年、平成16年度地域文化功労者表彰受賞。2013年、村山市名誉市民。

ペーター・コルネリウス

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1824年12月24日 - 1874年10月26日

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ドイツ

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ドイツの作曲家。詩人・翻訳家としても活動し、音楽に関する著作も残している。 少年時代からヴァイオリンを弾き、歌曲の作曲をしていたが、初めて作曲を学んだのは1841年になってからだった。1844年から1852年まで、おじで画家のペーター・フォン・コルネリウス(1784年~1867年)のベルリンの家に身を寄せ、その間にアレクサンダー・フォン・フンボルトやグリム兄弟、フリードリヒ・リュッケルト、フェリックス・メンデルスゾーンら、同地の文化人に出逢う。ベルリン時代の終わりに、いくつかの雑誌に音楽評論を寄稿し、ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフやパウル・ハイゼ、ハンス・フォン・ビューローらと親交を結んだ。

チャック・マンジョーネ

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1940年11月29日

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アメリカ

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チャック・マンジョーネ(Chuck Mangione、英語での発音により忠実な日本語表記は「マンジオーネ」、本名:Charles Frank Mangione、1940年11月29日 - )は、アメリカ合衆国出身のトランペット奏者、フリューゲルホルン奏者、作曲家。 ジャズ・フュージョンの活動で知られる。イーストマン音楽学校卒業。ラテン・テイストをふんだんに取り入れたメロディアスで心地よいナンバーを次々と発表し、全米で大ヒット。 代表曲「フィール・ソー・グッド(英語版)」は全米のヒットチャートでトップ5入りし、同タイトルのアルバムはBillboard 200のトップ2を獲得、ジャズでは異例の大ブレイクを記録した。 1980年の「栄光をめざして」は、同年のレークプラシッドオリンピックにちなんで制作され、人気のある曲である。マンジョーネは、フュージョンというジャンルのリスナーに愛されたミュージシャンであった。

アリ・バローソ

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1903年11月7日 - 1964年2月9日

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ブラジル

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アリー・デ・レゼンデ・バローゾONM(ポルトガル語発音:[aˈ' [a⠞ ba↪Lm_2C8]; 1903年11月7日 - 1964年2月9日)は、ブラジルの作曲家、ピアニスト、サッカー解説者、ラジオやテレビのタレント番組の司会者。 20世紀前半、ブラジルで最も成功したソングライターのひとり。カルメン・ミランダのために多くの曲を作曲した。

カーター・パン

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1972年2月21日

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アメリカ

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アメリカの作曲家。彼はイーストマン音楽学校とミシガン大学アナーバー校で作曲とピアノを学び、そこで音楽芸術博士号を取得しました。彼の教師には、サミュエル・アドラー、ウィリアム・オルブライト、ウォーレン・ベンソン、ウィリアム・ボルコム、デヴィッド・リプタク、ジョセフ・シュワントナー、ブライト・シェンが含まれ、ピアノはバリー・スナイダーに師事します。

ジョン・カンダー

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1927年3月18日

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アメリカ

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ジョン・ハロルド・カンダー(John Harold Kander、1927 年 3 月 18 日生まれ) [1]はアメリカの作曲家であり、主にミュージカル劇場での作品で知られています。カンダーとエブの作詞チーム(作詞家フレッド・エブと)の一員として、カンダーは『キャバレー』(1966年)や『シカゴ』 (1975年)を含む15本のミュージカルの音楽を書き、どちらも後に高く評価された映画化された。彼とエブはスタンダード曲「ニューヨーク、ニューヨーク」(「ニューヨーク、ニューヨークのテーマ」としても知られる)も書いた。

フリードリヒ・ヘルマン

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1828年2月1日 - 1907年9月27日

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ドイツ

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ドイツの作曲家、編曲家、ヴァイオリン奏者/ヴィオラ奏者、教師であるフリードリヒ・ヴァレンティン・ヘルマンは、ライプツィヒ音楽院(1876年から1924年までは王立音楽院として知られ、現在はフェリックス・メンデルスゾーン=バルトルディ音楽演劇学校として知られている)に入学した。 1843年11月にフェルディナンド・ダヴィッドのヴァイオリンの生徒となった。彼はそこでモーリッツ・ハウプトマン、ニールス・ヴィルヘルム・ガーデ、そしてフェリックス・メンデルスゾーン自身からも作曲を学びました。ドイツ最古のこの音楽院は、F. メンデルスゾーンとM. ハウプトマンによって 1843 年に設立されたため、ヘルマンはこの名高い学校の最初の生徒の 1 人でした。当時の最も優れたヴァイオリニストの一人であるデイヴィッドは後に、ヘルマンが「善良な行動」で勤勉に仕事をしており、彼は「最高の賞賛」に値すると書いている。ヘルマンはヴァイオリンを学び、編集作業のほとんどにヴァイオリンが関係していましたが、優れたヴィオラ奏者でもありました。